あなたがフォークソングで育ち、ビートルズから多くを学んだ世代で、
まだ胸の奥に熱き思いを秘めているなら、
あなたはぜひ加奈崎芳太郎を聞くべきだ。
加奈崎はそんなあなたに向けて今も熱く激しく歌を発信し続けている。
加奈崎芳太郎がどんなミュージシャンか知りたければチラシのプロフィールを見ればいい。 その音楽の輪郭を知りたければCDやビデオを鑑賞すればいい。 しかし、それでは加奈崎の音楽について何も分かったことにはならない。 加奈崎の本質に触れたかったら我々はライブ会場に足を運ぶしかない。 一度でもそのライブに接した人は、CDやビデオというものが演奏の本当の姿を決して伝えられない 影法師のようなものだと思い知らされるだろう。 あるいはライブとは全く別次元の表現形式だと思うようになるかもしれない。 加奈崎芳太郎とはそんな、全くどうしようもないほどのライブミュージシャンなのである。 彼のパワーをCDは再現できない。彼の殺気を映像は映し撮れない。 へたをすればライブ会場の音響機器が彼のヴォーカルのニュアンスを拾いきれない。 そんな加奈崎芳太郎のライブに、ぜひ足を運んでほしいという願いを込めて作ったのが このパンフレットである。 しかし、この場で伝えられるのは言葉だけでしかない。 ライブに足を運んではじめてその真価を知ることのできるミュージシャンのすごさを 言葉のみで伝えようなどというのは矛盾そのものである。 そこで、ここではあえて加奈崎芳太郎の言葉の世界、つまり歌の歌詞だけを話題にしようと思う。 それだけなら紙の上でも何とかなる。 願わくば、拙文がそれ以上の何かをあなたの魂に伝えることができ、 あなたがライブ会場に足を運ぼうと決意するきっかけにならんことを。
MY LIFE
誰が望んだ訳じゃない
そうするしかなかったけど
誰もが少しだけ手をかして
居心地の悪い椅子に座ってる
気付かない 気付けないまま
気付かない 気付けないふりをして
食って寝て働いて 夢を見て目が覚めて
いつもと同じ こだわりの中で
My Life……
何かをつかんだ訳じゃないし
どこへ辿り着けた訳でもない
言いたい事なら いくつもある
My Life…… これが俺等の MyLife…
不自由に産まれ 自由に死に
親や家や町や国や自分から
自由にあの空を夢見ながら
国や名誉や地位にしばられてゆく人達の不自由…
My Life……
何を愛し 何に祈り 何を壊し 何を創り
何を憎み 何を信じ 何に学び どう語ればいい
泣かないで Baby…
もう泣かなくていいんだよ Baby
たったひとつわかった事は
誰も殺さない 誰にも殺させない
殺さない 殺されない 殺させない
君はどうだい…
君はどうしてますか…
食って寝て働いて 愛し合って
夢を見て 夢を見て 夢を見て… |
25/50 髪を切った 服を変えた ダチを切り捨てた 女も変えた 何も変わらないにしても あらんかぎりの手をつくした そして 25年がたった
ちょっとだけでいいから 楽しみたくて はしゃいでたのに 声は何ひとつ変えられず
ひと時を刻むにすぎなかった
僕は大丈夫 僕は平気 どっかの誰かに ほめられなくても 生きてゆける 年をとった 子供は育った 借金もふえた 親をなくした 何ひとつ終わってないにしても 終わらないテーマが残された そして 50年がすぎる
ゴメンネ君の事 よくわかってあげられなくて だけど君がやらかした事
どうしても許すことができないんだ 僕は大丈夫 僕は平気
愛さずに愛されようなどと思ったことは 一度もないから 心を石に 心に意志を そして たった そして すぎた
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加奈崎はまず自分自身を語る。自分自身をさらけ出すといってもいい。 ある人が加奈崎の歌をはじめて聞いた感想を 「命の有限さをひしひしと感じた」と表現していた(すごいことを言うものだ)。 私には同じことを「加奈崎は歌で、限界も欠点も何もかも含めた自分のありのまますべてを、 全身全霊を傾け命を削るように告白している」としか表現できない。 加奈崎は30年間そんなふうに歌い続けて来たのだ。 そして、いまだに時代におもねることも、現実から遊離することもなく、 あるがままの自分を、現実の生活に立脚しつつ、執拗に歌おうとしている。 彼にとって歌は単なる商品ではない。生き方そのものだ。 それはなんと不器用で、真っすぐで、壮絶な生き方だろう。 だからこそ加奈崎の言葉はどこまでも熱く、重く、激しく、厳しい。 そういう、どろどろとした自己告白をともなうコミュニケーションは今の日本では成立しづらい。 若者は最初っからそういうコミュニケーションを知らない。 かつてそんな方法で人間関係を作っていたはずの我々もいつの間にかそうすることをやめてしまった。 時代の流れの中で、そういう言葉が疎まれ、受け入れられにくくなり、 我々自身もその流れに乗っかってしまったからだ。 そんな時代の中で相変わらずヘビーな言葉を発信し続ける加奈崎は、当然のように受け入れられない。 理解されない。疎まれる。それでも彼は生き方を変えない。歌のスタイルを変えない。 歌に「癒し」を求める時代に背を向け、なつかしのフォーク復活の潮流にも乗らない。 それでいて加奈崎は決して仙人にならない。現実の前で目を閉ざしたり、別世界を求めたりしない。 彼自身はいまだにフォークソングという言葉にこだわっているが、その精神はロックそのものだ。 あくまでもこの現実世界に踏みとどまり、どろどろとした自分をさらけ出し続け、 時代に抗ってトンガリ続け、もがき、あがき続ける。 しかし、それは何と崇高なもがきであり、あがきだろう。 それゆえに、何か大切なものを忘れかけているという自覚のある中年は加奈崎の生きざまと その証しである歌にぶちのめされ、感動するのだ。
聖夜'95〜ひつじかいのうた〜
我が国の師走の街のすべては
クリスマスのイルミネーションに光り輝き
人々も少し華やいでみえる
若い恋人達は年に一度のこのチャンスに
底の浅いサイフをはたき
ちょっとはましなぜいたくを 乞い願ってる
悪くない X'マス・ディ
ほほえましい我が国のX'マス・タイム
なぜか2000年前にうまれて十字架にかけられ
蘇った羊飼いの男の生涯の
誕生について極東の我らが祝ってる
どこからか歓喜の歌が
流れ出してくる
生まれてきた喜び 今生きてる喜びを声高らかに唄ってる
問題は解決したのか?
愛は叶えられたのか?
メリークリスマス
ジングルベルで心浮き立つ中
街角で渡されるティッシュペーパーの数のように
安っぽい神々の伝道師たちは この世の不安をあおっている
俺は俺の胸の奥に昔から住んでる
神に祈りをささげ帰り道で
ケーキと数本のキャンドルを求め 家族の待つ家路を急ぐ
悪くない X'マス・ディ
ささやかな我が家のX'マス・タイム
やす人
今夜子供たちはとまどいとあきらめと
期待のいりまじった目を閉じ
日々大きくなっていくことの夢を枕元の靴下に託してる
そしてその物語の先に生まれてくる人々が
僕らの生きた時代のこれらの神話や伝説を
僕らの生きた事の証として 受け止めてくれるのだろうかと
永遠の謎はとけるか!
永遠の愛は叶うのか!
メリークリスマス
ハッピークリスマス
自由になれば
自由になるほど 我を失い
さまよう 羊たちは…どこへ…どこへ
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凡夫
日に三度にメシを食らい 朝に起きて 夜に眠り
額に汗して働き チョット上を見てる人
愛した女と家を作り うまれた子供を育て
誰にほめられる事もなく 日々コツコツと歩く人
それでいいのだ これでいいのだ
俺達に許された たったひとつの贅沢
凡夫 凡夫
誰れをだます事もなく 誰れをうらやむ事もない
愛したもの達に囲まれ 愛されながら死んでく人
それでいいのだ これでいいのだ
だけど何とか云って 死んでく前に
残された子供達が悲鳴をあげてる
どう生きたらいいのか ワラをもつかんで
俺達の作り出した時代の中で溺れている
これでいいのか それでいいのか
俺達に許された 最後の贅沢
凡夫 凡夫
頭の悪い凡夫 口数の少ない凡夫
機転のきかない凡夫 愚かな凡夫
世界を知らない凡夫 悩む事ない凡夫
視野の狭い凡夫 反省しない凡夫
生きる知恵だけは持ってる 凡夫 凡夫
誰れにすがりつく事もなく 自分の足元をみおろし
たった一人 退屈楽しみながら やせた大地をたが
うしろ姿がかっこいい
凡夫
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そんな加奈崎の歌の世界が「私」にとどまるはずがない。 そのまなざしは当然のように社会に、そこで暮らす人々へと向かう。 愚直に生き抜いてきた加奈崎である、 高みから見下ろすように今の世の中やそこにうごめく我々をこき下ろしてもいいはずだ。 ところが加奈崎は決してそんなことをしない。あるいは、それを自分に許さない。 吐き出される言葉はあくまでも厳しく、冷たいが、 そこには我々「凡夫」への深い共感と驚くほどの優しさが秘められている。 それは彼が「命の有限さ」を知る人であるからに違いない。 加奈崎が「悪くない!」「これでいいのだ!」と絶叫する時、 その言葉に込められた情けの深さと意味の複雑さに私は震える。 高みから見下ろして「悪い」「だめだ」と決めつけることの方がはるかに易しい。 しかし、加奈崎はそんなことをしない。 人生の真実がそんなところにはないことを知っているからだ。 我々は皆、日々「食って寝て働いて 愛し合って 夢を見」ながら 「気付けないまま」「気付けないふりをして」「居心地の悪い椅子に座ってる」のだ。 わりきれなさ、宙ぶらりんの危うさの中で必死に何かにしがみつき生きているのだ。 そういう我々の現実をそのまますくい上げ表現することができたソングライターが 過去にどれほどいただろうか。私は加奈崎の人間理解の深さに脱帽する。 これは加奈崎がデビュー以来の30年間を、ミュージシャンとして、ひとりの人間として、 どんなふうに生きて来たかということにかかわる問題だ。 加奈崎は売れる売れないにかかわらず、人生と誠実に向き合い、運命と本気で格闘してきた。 くさったこともいじけたこともあったろうが、それをも糧として歌を作り、前進し、 その過程でひとりの人間として弛むことなく成長し続けて来た。 そのことを歌が証明している。 和久井光司という人が加奈崎の歌に関連して 「人生経験もない若僧のシンガーにメッセージとやらを押し売りされるのは迷惑きわまりない。」 と言っている。まったく同感である。 加奈崎の歌を聞くと、ここ何年かあるいは十何年か、 我々中年(ちなみに私は43歳だ)の聞くに堪える歌、歌うに堪える歌というものが、 ひとつも生み出されなかったとは言わないが、 少なくとも広く世間に流通してはいなかったことに改めて気づかされ、愕然とする。 日々大量に生み出され消費されていく歌の中にもメッセージを売り物にした歌はあった。 プロテストソングめいた歌もあった。 しかし、そのほとんどは図式のはっきりしたステレオタイプのメッセージでしかなく、 フアッションとしてのプロテストでしかなかった。 そのことが加奈崎の歌を聞くとはっきり分かる。 メジャーな世界にいる奴らは誰一人として私の求めている本物の歌を歌ってはくれなかったし、 届けてもくれなかった。だから私は歌を見捨てたのだ。 しかし、いまここに加奈崎がいる。幸いなことに私は加奈崎を再発見することができた。 加奈崎は50歳を越えた。我々はいまその人生経験に裏付けられた本物の歌を聞くことができる。 50歳を越えてなお歌い続けているミュージシャンすべてに価値があるわけではない。 魂を売り渡してタレントになってしまった奴も、仙人になってしまった奴もいる。 その中で加奈崎は悪戦苦闘を繰り返しながらも生き続け、本物の歌を紡ぎだし続けて来た。 だからこそ、その言葉は我々中年の心に深く突き刺さる。掛け値なしの感動を与えてくれる。 ここに我々中年の鑑賞にたえる本物のロックがある。フォークがある。ブルースがある。 私はそのことを心から嬉しく思う。 ただし、誤解のないようにこれだけは言っておこう。 だからといって、加奈崎の歌は決して我々を心穏やかにしてはくれない。癒してもくれない。 深く大きな優しさを内に秘めながらも、その言葉は我々を揺さぶり、 挑発し、駆り立て、時には傷つけ、不安にする。 熱き思いをどこに忘れて来たのだ! そんなところにとどまっていていいのか! 真実から目を背けたままでいいのか! と絶えず問いかけ続ける。 いつの間にか社会の中枢に位置を占めるような年格好になりつつある我々に 「問題は解決したのか? 愛は叶えられたのか?」と厳しい反省を促す。 「誰れにすがりつく事もなく 自分の足元をみおろし たった一人 退屈楽しみながら やせた大地をたがやす人」になり得たのかと匕首を突き付ける。 その土足で心に踏み込んでくるような辛辣な問いかけに答えられない者、 答えようとしない者は耳を塞ぐしかない。逃げ出すしかない。 加奈崎の歌は仮初めの豊かさに安住しようとする者にとっては、 猛烈な毒を持った、きわめて危険な歌なのだ。
I'm Sorry
ロック・コンサートの最前列で
押しつぶされて死んだ 娘の選んだ自由
屁の足しにもならず 犬死にする−Free……OK
20才過ぎたとたん 一張前ヅラして
大人に早変わりできる 鼻たれ小僧の自由
バカはバカのまま こまされつづける−Free……
ゴメンネ ゴメンネ
君達をそんな風にしてしまって
ゴメンネ ゴメンネ
しくんだのは俺達だ−何見てんだ坊主
I'm Sorry I'm Sorry Boys & Girls
卒業式の前夜 学校中の
窓ガラス割って回る なさけねえ不良の自由
あげられ ビビッテ 我先にと口をわる−Free……OK
学校出て 社会へ出て 大人になって
手に入れるのは 年末ジャンボ宝クジで夢見る自由
脳やられ ドレイになって 生き延びるだけの−Free……
ゴメンネ ゴメンネ
君達に思いこませてしまって
ゴメンネ ゴメンネ
だっておめえらチョロいんだもん−よく見てみろ坊主
I'm Sorry I'm Sorry Boys & Girls
パパやママはどうしたらいいか わからないまま
やりたい放題やったってサ
今日のツケは21世紀のガキ共に
回しとけばいいって思ったって
−I'm Sorry I'm Sorry
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こどもたちのうた
子供達よ 未来よ
俺達の善き事も悪しき事も
あまんじて受けとるがいい
感謝しつつ 反抗しつつ 受けつぐがいい
よかれと思い ひたすらよかれと
俺達がそうするしか なかったように
おまえ達もそうするがいい
子供達よ 未来よ
子供達よ 未来よ
青空に流れる白き雲の如く
サアー 外へ 出てゆくがいい
志を抱き 郷関を出てゆくがいい
輝き多かれと ひたすら願い
そして知恵と 勇気と愛を
身につけてくるがいい
子供達よ 未来よ
思いのままに 思うがままに
未来を生きる 子供達
まっすぐ前を
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なぜ加奈崎はかくも深い洞察力を身につけることが出来たのだろうか。 私は加奈崎が 「限界も欠点も何もかも含めた自分のありのまますべてを、全身全霊を傾けて命を削るように告白している」 と言った。 それはそれだけですごいことだが、この場合はそれだけでは必ずしも十分ではないだろう。 社会・人間一般と自己とをつなぐためには、何らかの架け橋が必要だ。 それは「家族」だと私は思う。 そして加奈崎には家族をテーマにしたすごい歌がいくつもある。 父親については『おやじのオートバイ』が、母親については『Knife』がある。 また『Japanese Wedding Song』という結婚をテーマにした歌や 『天然の進化』という命そのものをテーマにした歌もある。 それらの歌を聞くと、加奈崎が自分の家族の問題に直面する中で「家族とは何か」と深く自問し、 そのことを通して、すべての人間は「命を与えられ、かつ与える」存在であり、 また営々たる命の営みの中で「生き、生かされている」存在でしかないという真理に到達し、 そのことを深く理解し、自分のものとしていったのではないかと思える。 それは、人は決して他者との関わりから切り離された個としては存在できないということでもあるが、 この認識は、近代という時代とそれにともなう個人化の流れの中で我々が軽んじ、忘れ去り、 近代の終焉を言われる最近の時代状況の中であらためて思い出した認識なのである。 加奈崎はそのことに早くから気づき、彼の歌の重要なテーマとしてきた。 ここまでくると私は言葉を失う。 どれほど誠実に人生と向き合ってきたとしても、 なぜミュージシャンに過ぎない加奈崎がこんなにも深い認識に到達し、 それを歌に昇華できるほど血肉化できたのか。 これではまるで「歌う思想家」ではないか。「絶叫する哲学者」ではないか。 こんなことにこだわるのは、私が教員だからだ。 曲がりなりにも教育の専門家として20年間、 私は私なりに精一杯、生徒と格闘し続け、悩み続け、考え続けた。 その果てに最近やっと手にすることができた認識のレベルを、 ミュージシャン加奈崎ははるか以前に軽々と越えていたのだ。 そのことに対して私にはもう溜め息をつくことしかできない。 いずれにしろ、そのような認識は必然的に『次世代に対する責任の自覚』へと人を導く。 その自覚から生まれたのが『I'm Sorry』であり『こどもたちのうた』なのだろうと私は思う。 教育者の端くれとして言わせてもらえば、 大人(親)の視点から若者・子どもの問題を歌った歌で、 これほどの高みに達した歌を私は寡聞にして知らない。 もはや私には語るべき言葉がない。あとはあなた自身が加奈崎の言葉を吟味してみてほしい。 そこには教育とは何かという本質的な問いに対する明確な答えがある。
WOMAN
灯を消して 風のうなり 聞きながらおやすみ
僕はここに ホラ君のそば 気に病む事は何もないよ
外は満天の きらめく星くず
何もかもが よくなっていく
頼むぜウーマン 欲ばらないでウーマン
云いたい放題 意味なく強気にならないで
頼むぜウーマン 我を忘れないでねウーマン
俺たちもう充分 疲れきってる
強いふりするのは もうアキアキしてるんだ
頼むぜウーマン 男を立たせてくれウーマン
小さな声でいいから 最高だっていってくれよ
頼むぜウーマン ウーマン
男は生まれたままじゃ 男になれねえんだ
一人で歩かなきゃ ならない時があるんだ
立たせて 立たせて
君がいなけりゃ 君がいてくれなきゃ
何ひとつとして 意味がない
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Best My Friend
返事がない 君の返事がない
いくらノックしても 返事がない
生きてるのか 死んじまったのか
君からの便りがない
どうした君は システムに閉じこもって
誰れかに守られながら 声も出ないのか
助けを求めても 愛をこめても
おくびょう者のブルースを 歌うだけか
出てこいよ 荒れ果てた大地へ
おまえがBest My Friend おまえがBest My Friend
身を投げ出して 身を投げ出して
Like a Rolling Stone ころがる石の様に
道端にころがる 巡礼の様に
Like a Rolling Stone…ストーン
風の便りで聞いたよ 君がメディアの中で
重いクツをはかされ 踊ってたって
楽しそうに 踊ってたって
嘘、嘘
知ってんだろ ミカンやコケシも
その役目を終え 幕を降ろしたってさ
あれは君さ あれは僕さ
俺達はもう2度と 彼女達をさわる事ができない
出てこいよ 光あふれる大地へ
おまえがBest My Friend おまえこそがBest My Friend
身を投げ出して 我が身を投げ出して
Like a Rolling Stone ころがる石の様に
道端によこたわる 巡礼の様に
Like a Rolling Stone…ストーン
石の様に…砕けた石の様に
もうすぐ春、もうすぐ春は来る
もうすぐ春、もうすぐ春は来る
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まだまだ「言いたい事なら いくつもある」が、もうスペースがない。 最後に『WOMAN』と『 Best My Friend』を味読してほしい。 ウーマンとは誰か。ベストフレンドとは誰か。加奈崎の奥さんのことか。仲井戸麗市のことか。 違う。絶対に違う。 それはいま拙文を読み終えようとしている「君」のことだ。私はそう信じている。 「頼むぜ!」「出てこいよ!」と加奈崎はあなたに呼びかけているのだ。 その呼びかけに答える勇気があなたにあるならば、ライブ会場でお会いしましょう。(文責 石城正志)
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